当時、わが国の船の帆は蓆で作ったものや、2〜3枚の綿布を重ねて繋ぎ縫いしたものが主流で製作には手間がかかり、その割には丈夫ではありませんでした。松右衛門は、従来の帆の代わり、木綿の細糸をより合わせた太糸を使い、厚手の一枚布を織り上げる方法を考案しました。この新しい布は、耐久性に優れ、軽く扱いやすいことから瞬く間に全国に普及し、「松右衛門帆」と呼ばれるようになり、当時の日本海運を支える礎となりました。寛政年間、ようやく時の江戸幕府は蝦夷地以北の領土保全の重要性を理解し、日本人が開拓し、住みつづけていた択捉島(恵登呂府)領有化を主張しました。蝦夷地の緊迫化に伴い、松右衛門に択捉島での埠頭建設の命令が下り、埠頭建設が竣工しました。これらの実績から享和2年(1802年)に幕府より「工事を楽しむ」「工夫を楽しむ」という意から「工楽」の姓を賜りました。その後、函館でのドック建設や石鈴船・石救捲き上げ装置を発明して防波堤工事などを手がけました。松右衛門の創意工夫は、「帆布製造の始祖」として名高いですが、築港工事や鮭の調理方法を工夫し保存食である新巻鮭(荒巻鮭)を考案しました。文化9年(1812年)70歳の生涯を終えます。 公益のためには苦労を惜しまず、持ち前の工夫で工事を楽しんだ松右衛門は自らの信念を次のように言い残しています。「人として天下の益ならん事を計らず、碌碌(ろくろく)として一生を過ごさんは禽獣(きんじゅう)にも劣るべし」すなわち「人として世の中の役立つことをせずに、ただ一生を漠然と送るのは鳥や獣に劣る」、と。
工楽松右衛門のことは、司馬遼太郎の、菜の花の沖に詳しく描かれています。
|